うちの実家もそうだが、だいたいある程度以上の年齢の人の家というのは使わないものであふれている気がする。いや、若い人でもあふれている人はいる。その場合、規模が違うが、それは単に置いておけるスペースの大小の問題なのだろう。となると、人というのはスペースに応じてものを貯めこむ性質があるということになる。
洋服はタンスから溢れてそこらに積み上げられ、家具、特にソファーが物置台になっている。それらのものは最初必要があって、おそらくある程度の金額を出して購入したものだ。そのために働いてお金を貯めて、あるいは何かを我慢して、その対価でどうにか購入したものだ。でも今は必要なくなって、それでもそこにある。
不思議なのは、だいたいそういう状況に対してその持ち主は「何とかしたい」と思っていることだ。自分が手に入れた物だから、置いておきたいと思っていて、置いておく場所があるなら遠慮なく置いておけばいいのに、なぜかそのことを対処すべきこととして考えている。
「できることなら誰かにもらってもらいたい」と思っていても、もらってもらえるものはごく一部で大半のものはそのままになっている。捨てればいいのにと思うけれど捨てられない。なぜ捨てられないのか。
それはつまり捨てるのに労力がかかるからだ。これはゴミ捨て場までそれを持っていく肉体的な労力というよりは、ある程度苦労して手に入れたはずのものを無価値なものと認定しなおすことに必要な精神的な労力だ。他人にもらってもらうならその価値は保たれるが捨てるとなると無価値になる。手に入れた時の自分自身の価値の付け方を自分自身で否定しなければならないのだ。
捨てるための労力が手に入れる労力よりも大きいと物は溜まっていく。逆だと溜まらない。基本的に人は手に入れる労力よりもそれを捨てる労力のほうが大きいという性質があるのだろう。そういうふうに進化したのだろう。