お知らせ

ていれとつくろい、終了しました。
ブログは記録として残しています。

#127 コンクリゴミ箱の魅力

この間行った国立民族学博物館の今和次郎の展示で知った「超日常観察記」という本にコンクリートのゴミ箱についての記述があった。私にとってコンクリートのゴミ箱はどういうわけか魅力的なもので、その記事を読んでいた。

小さい時にはその箱はとても気になる存在だったけど、それがゴミ箱だと知るのはかなり経ってからだった。よく知っている他のゴミ箱とはあまりにも形も素材も違う。もうそれを実際に使っていた家も少なかったようだから、使うものという認識もなく遺跡のようにも見えた。

あまりコンクリートのゴミ箱のことを気にすることもなくなったなと「超日常観察記」でゴミ箱が詳細に観察されているのを見て思った。

一見使い勝手の悪そうに見える重たそうでゴタゴタしたものが結構好きなのかもしれないなと思う。コンクリートのゴミ箱に火鉢もそうだが玄関先や庭に転がってるのを見るのは楽しかった。ゴミ箱も火鉢も実家にはなかった。目にするものは植木鉢や棚として使われ本来の用途は残していないからか、その用途を知るのには時間がかかった。なんでそんなものが好きなんだろう。存在感は大きいものたちだけど。

#126 道具で変わる

私はこれじゃないとダメという風に思ってしまいがち。お弁当を持って行かないとダメとか、この位は掃除できてないとダメとかいう風に考えてしまいがちなことがある。でも、なんだかそこまで考えるとしんどい。

家で作った弁当が美味しいことや、ある程度は片付いた部屋が好きだということを知っていれば十分だった。弁当を作るのに時間がかかるから、疲れているときはお店で何か買ってきて食べればいい。掃除だってやりたいときにやりたいだけやればいい。そのくらいに考えてる方が得。お気に入りのものでも毎日それが好きなわけでもないし、使い捨てのものも使う。

でも、基本的には自分の好きな事が自然とやりたくなるようになってるのがいいなと思う。数カ月前に買ったお釜で炊いたご飯はとても美味しい。だから、ちょっと疲れててもお釜でご飯炊こうっていう気になったりする。そういう風に思わせる道具は楽しい。でも、やっぱり面倒なときはあって、そういう時別の方法を考えればいい。

#125 繕い

久しぶりにたっぷり繕った。ズボンの破れているところから薄くなっているところまで、全部見つけて修復してやるぞ!と張り切って始めた。あて布はあまり使いたくないので弱くなっているところは刺繍のように細かくチクチク縫っていくという方法なので結構時間がかかる。今日半日繕って、結局まだ半分も終わってないなという感じだ。

凝ってくると面白いもので色や縫い方の好みも分かってくる。今日、面白かったのは、破れているところはあて布をしてもいいけれど、あて布をしてないように見せたいということだった。布をあてといてもその後、周囲を縫いまくるとあまり布を当ててることがわからなくなる。それが好きだ。


できたところを最後に見なおしてみると、色がとても気になった。配色はほとんど勉強したこともなく苦手だ。でも、かっこよく繕いたいのでちょっと考えていかないと。

#124 京都御所

京都御所を見に行ってきた。行きたくなったのは本を読んでいて御所には襖絵がたくさんあるということを知り見たくなったからだ。しかし、残念ながらたくさんの襖絵は見られなかった。唯一見れたのが見学コース前半にあった「諸大夫の間」の3室にある虎、鶴、桜の絵だった。その他の建物は、障子などが閉まっており中が見えなかった。残念。

襖絵以外にも、最近知った蔀戸(しとみど)や舞良戸(まいらど)も実際に見れて面白かった。やっぱり、板の扉だと中が真っ暗で、寒い冬に戸を閉めながらも明かりを取り入れられる障子の発明は画期的だっただろうなというのがわかる。他には写真ではあまり思わないのだが、全体的に中国風で時々萬福寺を思い出しながらの見学となった。


御所の建物は以外に新しく確か大正時代に建てられたものが多いとガイドの人が言ってた。全体的に建物の荘厳さはあまりない。非常に厳重な警備の中、団体としてガイドされながら建物を見るというのは不思議なものだった。

#123 家にあるもの


昨日、国立民族学博物館の展示に行く前に、その隣の民芸館で「みんげい市」をやっていたので見に行った。器や布が置いてあり、よさそうなものが多いのでちょっと欲しくなってしまう。

こんなにも家に物が溢れてるのに欲しくなってしまうのは本当に不思議だけど、時々欲しいなと思うものはやっぱり出てくる。そして、今日になって家でいつも使っているコーヒーカップを眺めて、「これ結構好きだな。新しいの要らないな」と思った。

最近になって知ったのだが、マザー・テレサが世界平和のために何をしたらいいかと問われたときに、「家に帰って家族を愛してください」と言ったそうだ。既に家にあるものの大切さとか、それが好きであることを認識し大切にするのは以外と難しい。お店に行って何かを欲しくなってしまうのは、自分の身近に目を配れずにどこかに出向いて世界平和に貢献したいと思うのと似てる気がした。

みんげい市を見たあと、何故普段は食器なんか余ってるから貰って欲しいと思ってるのに買いたくなってしまったのか考えていてそんなことを思った。自分の家にあっていつも使っている道具のいつも考えていなかった好きなところが見えてきた。

#122 「今和次郎 採集講義」展@国立民族学博物館

国立民族学博物館で開催中の「今和次郎採集講義ー考現学の今」を見に行った。今和次郎という人のことは全然知らなかったけど、民博の展示ということと暮らしとか日常に関係してそうだなと思ったことから見に行った。

全体的に面白い展示でどこが特にというのが難しい。最初からやけにスケッチが上手い研究者だなと思っていたら東京藝術大学卒業だったようで、絵を見ているだけでも面白かった。

モンゴルの遊牧民の家財道具展示では遊牧民の所有物の少なさが分かる。そして、「このバケツは息子が生まれた年に商売人からかったの」といったようにその家のひとがもののことを説明している。必要最低限のものしかなく買うとということは大騒動なのかもしれないなと思った。

学生服のどこがほつれていくかを図示したものなどは、繕いをよくやっているので面白かった。私の服も繕うたびにカルテのようにどこを繕ったかなど記録したら何かわかるかもしれないなと思う。

民家から始まり服そして家財道具全般まで幅広い展示だがまとまりがあるように思った。生活のひとつひとつのことに「それはなんで?」と考えた人なんだなという気がする。学生服のほつれだって、単に「ほつれた、治さなあかんわ」と思ってもスケッチを取らないだろうし、ある家族の一日を詳細に記録したりもしなかっただろうなと思った。そんな単なる記録のなかに時々、今当たり前だと思っている日常に批判的な意見が混じってたりしてびっくりする。

展示は6月19日まで。関連の企画もいくつかあるのでまた行ってみようかなと考えている。

#121 つばめ

京都の叡山電鉄一乗寺駅から歩いて5分ほどのところにある「コーヒーと定食 つばめ」という食堂に行ってきた。行きは京都府立大学のほうから歩いて行ったが、カフェや美容院の多い地域だった。

ガラス張りのすっきりした感じのお店にはあまり装飾はなく、中古の椅子や机が並んでいた。棚に並べられたお皿や料理器具などの実際に使うものが壁を彩っている。

道に面したガラスの壁際に置かれたソファーから日が暮れ始めた外を眺めていると、植木に絡められた電飾にぱっと光が灯った。電飾なんてなんでそんなもの点けんねんと普段なら思ってしまうのだがちょっと楽しくなってしまった。


定食と赤ワインを頼んだ。雑穀ごはん、鶏の揚げ物、カブの酢の物に切り干し大根などがでてきた。ゆずの香りのするカブの酢の物がとても美味しい。特に印象に残るような味ではないけれど、毎日でも食べれるような美味しさがあった。一乗寺はほとんど行くことのない場所だけど、つばめにはまた行くかもしれないなという気分になった。

#120 ひろびろ

部屋の片付けをして、台所にカウンターのように部屋の真ん中においてあった家具をどかしてしまった。突然部屋が広くなったように見えた。でんぐり返りとかできそに思えてきて、多目的ホールのようだった。
突然だだっ広くなった板の間の部屋には違和感があった。畳だとそこまでは思わなかったかもしれないが、ある程度は物がある方が家っぽいと思ってるんだなと気づいた。置いたほうがその空間を使って何かをしている気になれたりする。初めて一人暮らしをして3畳のへやがまるまる空いたときに、わざわざダンボールで棚を作ってその上に置物を置いたりしていた。


暫くしてそんなもの実は見てないと気づき、棚を除けてしまったら広くなったのでそこにイーゼルを立てて絵を描いたり、寝る場所を移したりしはじめた。


今回もそんなことが起こればいいなと期待している。板の間の広い空間が出来た。今までは場所がなくてできないと思ってしまったことも、広くなったから思い出すこともあるかもしれない。

#119 丈夫そうな鞄を購入

yahoo auctionで落札したショルダーバッグが届いた。丈夫な鞄が欲しくてオークションの出品商品をいろいろ一緒に見ながら探してもらった。買ったものは1940年代のフランス軍の鞄だそうで、丈夫なキャンバス地と革でできている。送料などを入れてだいたい4,000円。

A4の書類がちょうど入る大きさ。今まで使っていた鞄より少し小さめなので、これから少し持ち歩くものの量を減らそうと思う。


古いけど倉庫にずっと入っていたのか使われた形跡はなく、長い間保管された独特の臭がする。70年間も保管されたなんてすごいなと思う。使われてない革は硬くて使いにくい。これからどんな風になっていくのかなと楽しみ。長い間使えそう。

#118 布ナプキンで外出

布ナプキンを使いながら初めての大規模な外出をした。その日が一番重い日だったが、朝6時過ぎに家を出発し午後9時前に帰宅するのに2枚の布ナプキンと1枚の使い捨てナプキンで済ませた。

布ナプキンを使い始めてから思ってたことだけど、きちんとしたものなら布ナプキンの方が長時間安心していられる。しかも割と動いても漏れる心配も少ない。この日は公園で遊んでいたので、走ったり、滑り台を滑ったりといろいろしたが心配せずに過ごせた。

#117 七輪の焼肉

昨日は七輪で焼肉。肉はレバー、センマイ、ハチノスなどのホルモンを京都市伏見区の大手筋にある岡田食品で買ってきた。他にも3種類ほど買ったが名前を忘れてしまった。ついでにすじ肉も買ったが、ここのすじ肉は美味しい。

小さい頃からバーベキューセットに親しんでしまったせいが、焼肉を七輪でなんて考えられなかったけど使ってみると七輪のほうが使いやすいし肉も美味しく焼ける。

家の周りにすこし火を起こすスペースがあるなら、焼肉をするのに炭さえもいらない。乾燥した竹や木材に火を付け、炎や煙がおさまりおき火になったところで肉を焼いていく。

食べ終わっても、火がまだ残るってるので火を見ながら外で話し込む。まだ夜は外にいると少し寒いが、火が付いていると丁度いい。

#116 和蝋燭のゆらゆら

夕立が降ったので和蝋燭を出した。半年ぶりの和蝋燭。蝋燭の光はゆらゆら揺れるので見てると疲れてくる。部屋のあちこちに出来た影もゆらゆらする。部屋の角に置かれた一斗缶からの反射がきれいで、いつもより一斗缶の存在感が増している。

和蝋燭のなにが好きなのかよくわからないけど、部屋の雰囲気はガラッと変わる。蛍光灯の点いた部屋にいる時とはやりたいと思うことが変わる。例えば、蝋燭のもとではブログを書きたいとは思わない。今は電気をつけている。

風呂からあがると蝋燭はもう消してあった。部屋の中に燃えた臭いが残っていた。この臭いは大好きだ。

#115 iPhoneを壊した

ポケットから出したiPhoneをそのまま落としてしまい画面がばりばりと割れてしまった。またやってしまった。去年はMacBookのキーボードにお酒をかけてしまい壊してしまった。

どうしようと思いそのまま近くにあったソフトバンクストアに行ってみた。もちろんそこでは直してもらえない。定員にiPhoneケースを薦められ、初めてケースが必要かもしれないと思った。


iPhone購入から1年は入れると聞いていたAppleの保証プランのAppleCareにまだ入っていなかったので今から入ろう、と思ったらどういう訳かサービスが終了している。ソフトバンクの保証に来週あたりに入れるみたいやけど、なんだか嫌になってきた。


iPhoneやパソコンを壊さないように気をつけるのはきっと無理だ。壊すのを前提にして保険をちゃんとかけとかないと、と後悔。まだ買って1年もしてないiPhone。近いうちに直す。

#114 ハンドバック繕い

破れ始めたと書いたハンドバックを直してみた。破れたところにジーンズ地をあてて刺繍用の太い糸で縫ったり、取っ手などを同じ糸を使いブランケットステッチで補強したりした。

合成皮革に針が簡単に通るんやろかと思いながらも通してみると、太い刺繍針なら簡単に通るのにはびっくりした。でも、破れかけの部分はもうもろくなったプラスチックみたいに弱くなってるから、下手に針を入れるとそれだけでどんどん破れ目が大きくなっていった。斜めに針を入れないようにしたり、既に破れている箇所から少し離れた場所に針を入れるように心がけた。

1時間ほどかけて見た目には満足できるものができた。やっぱり生地がよわってるのでこれからどうなるか不安だけど、破れっぱなしをほっとくよりずっといい。

#113 傷が見えたっていい

何かが壊れたりして繕おうとするときに、壊れたことが分からないように繕う方法と壊れたことがわかるけど使えるようにするように繕う方法がある。例えば陶器であれば、金継はあきらかに壊れたことがわかる直し方。衣服であればかけつぎは穴が空いてなかったかのように直し、あて布をして直す方法もある。

私はどちらかというと壊れたことがわかってしまうような直し方に興味があるなと思う。技術がないから分からないように自分では直せないからというのもあるだろうと思う。でも、なんで一度は傷ついたことが残ってしまう直し方に興味があるんだろうと考えていた。

傷ついても別にいいじゃないかと思いたいのかなと思った。私は自分が失敗したこととか、嫌だったことや、好きな人が過去にした気に喰わないことをなかったことにしてしまいたくなることがよくある。けど、そういう考え方があまり楽とか得だとか思わなくなってきたのでなんとかしたい。迷惑かけたなら謝って、上手くいかなかったなら方法を変えりゃいいだけ。

なにか物が傷ついたときにそれがなかったように直さなくても、まあ傷ついちゃったけど仕方ないね、上手く使えるように直してみよう。一度傷がいったことはわかるけどそれでいいね、と思いたい。少しの傷で全部を捨ててしまうのも嫌だし、傷をなかったことにしてしまうのも息苦しい。そういう自分の過去に対する思いをそのまま繕いに反映してるのかもしれない。

#112 ハンドバックが破れはじめた

3年ほど前に買ったハンドバッグの表面が破れ始めた。合成皮革のハンドバッグはちょっと直せそうな感じがしない。なんでこの鞄を選んだんだろうと考えていた。

鞄を買いなさいと叔母に貰った商品券を持って、なれない百貨店をうろうろしてなんとか買ったものだった。多分当時から革はかっこいいと思ってたけど、高い革の鞄を買うほどお金を払いたくなかったので丁度貰った1万円で買える範囲の革っぽいものを買ったんだろう。

今となってみれば、そこまで高いものを買いたくなければ、綿のある程度丈夫なものを買っていればなんとか直せたかも知れないのになと思う。でも、その時は革が買えないならせめて革っぽいものを!って思ったんやと思う。

なんで買ったんやろう、とは思うものの3年使ってある程度気に入ってしまった。治す方法を考えつつ、まだまだ使っていきます。
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