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ていれとつくろい、終了しました。
ブログは記録として残しています。

【絵日記 #182】自分が持ってるものが自分


家電や服のリスト(絵日記#180#181)をブログに載せようと思ったときに、数えたり、分類すること、リスト化していくことにワクワクした。でも、途中からだんだん後ろめたいような気分になってきた。家電のときはメーカーや型番まで載せようかと考えたけど、最終的にはぼんやりとした分類になった。リストはなんとなく面白みに欠ける。


このリストからは私がどんな選択をする人なのかわからない。例えば「ミシン 2(台)」はJUKI本縫いミシンDDL 9000BJUKI ジューキ 1本針3本糸差動送り付きオーバーロックミシン MO-03Dだ。「冷蔵庫 1(台)」はハイアール 106L 2ドア冷蔵庫


こんな情報から何を読み取るかは人それぞれだけど、「わざわざそんなミシンを買う人」であったり、「なんでその冷蔵庫にしたんだろ?」とか考えることができる。


リストに型番などを書かなかった理由は多分こういう細かい情報から読み取れることをこと隠しておきたかったからだと思う。


そんなことを考えている時に、河井寛次郎「火の誓い」を読んだ。ものとそれを買った人の関係について書いてある。ちょっと引用。


もの買って来る 自分買って来る

もしか自分以外のものを買って来た人があったなら、自分はその人を見たい。人は言うであろう。嫌だったけれど仕方がなかったから買ったのだ。こんなものは自分のものでも何でもないのだと。しかしその人は仕方がないという自分以外の何を買って来たのだろう。(『火の誓い』p230)


家にあるものが何なのか具体的には言いたくなくなったのは、ちょっと「仕方ない」自分を隠しておきたくなったから。隠すこと自体はともかくとして、家の中のものを好きなものとそうでもないものに分けて、好きなものは自分です(自分らしい)と言い、そうでもないものは自分ではありません(自分らしくない)と思い込んでしまったら危険な感じがする。自分の一部を自分でないと言っているから。でも隠すことは、そういうことを助長しそうな気がして、そういう意味ではやっぱり危険だと思う。

仕方がない部分を自分自身だときちんと認識すれば、自分の関与できる範囲がアメーバのようにびよーんと広がる感覚がある。自分自身は変えれる余地がある。



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