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ていれとつくろい、終了しました。
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【考え事 #004】 「命」が同じと思える人がいたのか

仔猫を拾った。

4月の、今夜から寒波がおとずれますという夕方にカラスが何かをつついていた。みーみーと音がしていて最初はネズミかと思った。ネズミだったらそのまま通り過ぎただろう。しかしそれは仔猫だった。野良猫が家の軒下ででも仔猫を産んでしまったから、それを捨てた人がいたのだろう。そのまま立ち去れば数時間で命が失われ、カラスは食べ物を得られた。カラスを追い払い、親猫を探したがそれらしいのは見つからなかった。

こういう仔猫を見つけたいと思う人はいない。猫が好きであればあるほど、こういう状況には遭遇したくない。しかし、出合ってしまった。その時から選択の余地はない。


猫ではなく、カラスが好きなら、何もしないだろう。
猫ではなく、ネズミが好きなら、ネズミでなくてよかったと思うだろう。
猫ではなく、シラミが好きなら、どうしただろうか。

僕はカラスを追い払った。
ネズミだったらよかったのにと思った。
仔猫を保護した。
シラミを見つけ次第、潰した。

仔猫を捨てた人と僕は同じだ。
嫌いだから困るから捨てるのと、好きだから放っておけないから拾うのは同じだ。

何かの命は「命」という一般的な一つの概念として、大切にしたり粗末にしたりできない。「猫の命」「ネズミの命」「シラミの命」として、より正しくは「『この猫の』命」として、その主体から引き剥がせない性質として扱われる。

以前、鶏を自分でシメて食べるキャンプに同行したことがある。昼間、ととととっと走り回っていた鶏を夕方、逆さに吊るしてナイフで首を掻き切った。泣いたり、落ち込んだりした参加者は一様に「命の大切さを学んだ」と言っていた。言いながら、パチンパチンと目の前を飛ぶ蚊を潰していた。


例えば釈迦やキリストに「命」がどう見えていたか。そういうことを考える。

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